紀元千年

ジョルジュ・デュビィ(若杉泰子訳)
紀元千年(公論選書1)
公論社、1975年、211頁。

George Duby
L'an mil
Paris: Gallimard, 1967.

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序論 証人たち
一  歴史の感覚
二  精神的メカニズム
三  見えるものと見えざるもの
四  紀元千年忌におきた不可思議事
五  解釈
六  浄め
七  新しい契約
八  飛躍的発展

年表
引用文献
あとがき(安藤孝行

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紀元千年頃の宗教的・霊的な空気と人々の心性を描き出す精神史である。本書のほとんどは紀元千年前後に生きた著述家ラウル・グラベルアデマール・ド・シャバンヌ、サン・ブノワ・スュル・ロワールのエルゴ らの史料引用で構成されている。デュビーの少ない解説を手掛かりに膨大で多彩な証言をがんばって読んでいると、デュビーがいかにして史料からデータを引き出していくか、歴史家としての営みの一端を追体験できるかのよう。楽しい。

紀元千年の恐怖という旧来のイメージ通り、人々は終末の到来という不安に押しつぶされていたのだろうか。

第一章は紀元千年を巡って不安あるいはある種の期待があったことが仄めかされる。当時の著述のほとんどで紀元千年は重要視されていないもののそれは紀元千年より後、恐怖があったとしてもそれが過ぎた後の著作であり書き留めるに値しないと考えられたのではないか、という指摘は警句だと思った。「だから他の手掛かりを軽視してはいけないのだ」(26頁)。

第二章は著述家たちの知的バックグラウンドに目を向ける。彼らは修道士であり司教区学校での勉学とは力点の異なる教育を受けたが、どちらにせよ彼らの学究は神の王国に向かうための霊的訓練であり、象徴・類似としてこの世の様々な事象に神の言葉を読み解いた。

第三章は彼らの思考様式に迫っていく。彼らは宇宙(自然)、社会、身体などに「本質的なある一つの結合と調和」(55頁)、「恒久な秩序」(66頁)との照応を見出していく。かれらは教会人として聖と俗の間の仲介を任じられている。

第四章。著述家たちは様々な社会現象に無秩序や混乱を見出している。根強い「紀元千年の恐怖」イメージと共通するところで確かに想像を掻き立てるところがある。彗星の到来、日蝕飢饉。聖職売買。異端。さらには遠くエルサレムでのカリフによる教会破壊まで。例えば、1023年の日蝕アデマールによれば教皇や皇帝や君主の続けざまの交替を告げる出来事であった。

第五章はこの不可思議な徴の原因についての証言を拾っていく。修道士の前に「ぞっとするような者」悪魔が現れたり。

第六章ではこれらの徴を前にした人々が気づきを得て悔い改めるためにとった様々な方法へと視点が移る。 罪ある人は破門され火刑に処される。修道士から国王まで個人としての改悛の手段として施しや苦行をし、詩篇を歌い、巡礼に出て、修道誓願を立てる。さらには「神の平和」集会や集団での巡礼といった社会的な浄めを通して、「神の都につくことを希望していた」(160頁)。

第七・八章で叙述のトーンは大きく変わる。神の怒りの静まりとゆるしの徴が見いだされていく。恐怖と混乱を乗り越えた先に現れる成長と発展のうち、著述家の記述に表れる信仰面での新しい動きが汲み取られる。宣教・十字軍について、また聖体や十字架に関する議論の高まりである。

興味がわいたことをいくつか。第五章で「悪魔たちは彼らに仕えている人々と同様に黒い。善の軍隊の戦士たちは彼らが着ている白衣によって見わけがつく」(124頁)とあり、第三章でも眼前に現れた死者の霊の修道士集団は白衣を着ていた。第七章でグラベルは各地の教会再建設を「あたかも世界全体が自分の体をゆりうごかし、その着古した衣服をおとし、諸教会の白衣をあらゆる部分にまとったようであった」と喩える。割り当てられた色が帯びた意味合い。黒と白はやっぱり対比的だったんだろうか。気が向けば古典たるホイジンハも読み返したい。

エルサレムでの出来事にまで著述家たちは目を向けてその意味を考えている。「グラベールにとってスペインはアフリカに属しているのだ」という指摘も面白い。本書で取り上げられた著作家の見聞きした多くはフランス地域の事例であると思うのだが、他の地域の証言のトーンはまた変わってくるのだろうか。

異端を≪マニ教徒≫と呼ぶ記述が多く引かれていて面白かった。これもレッテルなんだろう。自らの思考の準拠枠に従って異端を分類しそこに混乱や脅威を見出す手続き。

登場人物や地名のほとんどがフランス語風に訳されているため調べながら読んだのもあってちょっと大変だった。原著も手元に置ければよかったのだけど。アクセスできる辞事典も今の自分には多くないのでGoogleに助けられている……。